「高崎市民激怒」小田村 伊之助って誰?群馬県令・楫取素彦
2016/01/15
小田村伊之助って、誰?
素朴な疑問です。
きっと幕末マニアでないと知らない人です。
幕末かじってるくらいのひとで、精々知ってるか知らないかでしょう。
さて、
今回はそんなわりとマイナーな小田村伊之助にスポットを当ててみたいと思います。
文政12年3月15日(1829年4月18日)、長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に藩医・松島瑞蟠の次男として生まれる。
儒教を教える小田村家の養子に入る。弘化元年(1844年)15歳でエリート長州藩士の教育機関・明倫館(めいりんかん)に入り、
1847年、19歳で司典助役兼助講となる。22歳大番役として江戸藩邸に勤め、安積艮斎・佐藤一斎に教えを受けた。
15歳にして学問を志した彼は、まさに論語の一説にある「子曰く、吾れ十有五にして学に志す。」の如く、儒学を学ぶ秀才だったことがうかがえます。
吉田松陰との親交も深く、彼の妹(寿)を妻にします。
松陰の熱い尊王攘夷思想の
マインドセット
を授けられる。
吉田松陰亡き後は、残された塾生の面倒をみながら長州藩主・毛利敬親(たかちか)の側近として活躍します。
1864年、禁門の変(きんもんのへん)勃発。
この事件により、長州藩はテロリストとして幕府らか糾弾され、
保守派(幕府恭順派)
が台頭。
革新派の伊之助は、吉田松陰が2度投獄された野山獄に
投獄
されてしまいます。
1865年
高杉晋作、奇兵隊で蜂起
長州藩保守派を武力で制して政権を掌握する。
それにより、伊之助は釈放される。
この後、坂本龍馬と出会い彼を桂小五郎に引き合わせて
薩長同盟の
キッカケ
をつくります。
慶応3年(1867年)9月に藩命により、
楫取 素彦(かとり もとひこ)
と改名した。
桂小五郎も、同じく藩命により木戸孝允に改名。
ようするに幕府からは、彼はテロリストであり
お尋ね者
だったんですね。
桂(木戸)も、小田村(楫取)も長州藩のリーダーになっていきますから
お尋ね者の名前ではだめだったんですね。