徳川家康は何故?江戸に幕府を開いたのか?の謎
2016/01/30
こんにちは。親父です。
今日は有名な徳川家康の話しです。
難しく語ると、居酒屋ではウザがられるので簡単にまとめましたよ。
関ヶ原の10年前に、国替えで左遷させられた件
徳川家康といえば、三河(現・愛知県)の戦国大名として織田信長、豊臣秀吉と順に重用されて
領土を確実に増やしていきます。
豊臣秀吉は天下統一目前の1590年、小田原の北条氏を滅ぼします。そして北条氏の領地だった関東を家康に与えます。
しかし、家康の領地だった三河、遠州、駿河、甲斐、信濃は没収しちゃいます。いわゆる国替えですね。
豊臣秀吉は家康を恐れていたので僻地(へきち)に飛ばしたかったと考えられますね。
水はけが悪く、当時は ほとんど海だった江戸。でも 家康が選んだ理由とは。
左遷されて関東にやってきた家康。本拠地はどこにする?ってなりますよね。
選択はいくつかできたわけです。そう、鎌倉や、小田原です。
鎌倉は、源頼朝が鎌倉幕府の本拠地にしたところ。
小田原は、北条氏が本拠地にしていたところ。
どっちも使えたんですよ。でも家康はどちらも選ばずに江戸という無名な地を選ぶ。
理由はいくつかあるけど、鎌倉・小田原は山が迫る狭い土地だったと考えられます。
家康は大勢の家臣を抱えていたので、広い土地を求めていた。家臣を生活させて関東を支配していく為には新たな開発も必要だった。
そこで眼を付けたのが江戸を中心としての関東平野だった。
日比谷は当時入江だったので、神田山を削って埋め立てた。そこに武家屋敷の土地を確保。
低湿地帯を水田に変えて食料の充実。水運を充実させ流通ルートのインフラ整備。それにより豊富な森林資源も確保できる。
開発することにより、将来的に大坂を凌ぐ都市にする構想を家康は持っていた。
やはり、恐ろしい男ですね。
関ヶ原の勝利、しかし江戸を離れなかった理由
家康が江戸へやってきて10年、関ヶ原の合戦が勃発。
ご存知・石田三成の西軍と徳川家康の東軍との対決です。
家康は大勝利して中央政権を掌握します。
そうなれば、家康は本来の本拠地である三河に戻ることもできましたし
大坂、京という文化レベルの高い都市に本拠地を移しても良かったんじゃないのか?という疑問がうまれます。
しかし、彼は江戸から離れませんでした。
なぜなら、京は長らくの戦乱で資源が枯渇して、環境も劣悪。
大坂はなによりも豊臣支配の強いエリアだったんですね。
そんな事よりも彼が重視したのは天然資源だと親父は思います。
利根川の水源があるうえに森林資源が豊富で、インフラ整備も思うがママで将来性のある江戸に幕府を開くわけです。
関東での幕府開府は、武家政権を初めて築いた源頼朝の影響もあったのも確かでしょう。
それにしても、家康の先見性の素晴らしさを思い知らされます。
江戸から泰平の世を創ったんですから。